1959-12-23 第33回国会 衆議院 決算委員会 第13号
○永野証人 一番当初に川崎が責任を持ってロッキードと出しましたのは一昨年の八月でございまして、そのあとCに変わりましてから、ロッキードが新しくCにのっとってプロポーザルを作りまして、そのときにロッキードから、前に出したときの資料を使ってよろしいかどうか、特に日本側の製造負担と申しますか、川崎で関係する部門の数字はどうかという問い合わせを受けたわけでございます。そのときに川崎側といたしまして、Cの新しい
○永野証人 一番当初に川崎が責任を持ってロッキードと出しましたのは一昨年の八月でございまして、そのあとCに変わりましてから、ロッキードが新しくCにのっとってプロポーザルを作りまして、そのときにロッキードから、前に出したときの資料を使ってよろしいかどうか、特に日本側の製造負担と申しますか、川崎で関係する部門の数字はどうかという問い合わせを受けたわけでございます。そのときに川崎側といたしまして、Cの新しい
○永野証人 一番当初作りましたのが五七年の八月でございまして、そのあと約一年ほどたちました後に、五八年のたしか八月ごろであったと思いますが、104Aから変わった104Cを作るという仮定のもとに、この当初の生産計画及びいろいろの条件と若干違っておりますが、こういうものが昨年の八月にロッキードから出されたように存じております。
○永野証人 ロッキードの104Cの単価につきまして、ただいま八十六万ドルという数字は確かか、こういうお尋ねであったように存じますが、川崎でロッキードと一緒にタッチいたしまして、連絡をいたしまして作りました単価見積書は五七年の八月でございます。これは104Aタイプにつきまして計算をいたして提出いたしましたそのときの金額が、たしか八十六万ドルであったと記憶いたしておるわけでございます。